高度経済成長期とは
高度経済成長とは、経済規模が継続して拡大していくことです。具体的には、好景気時の実質経済成長率が約10%以上を表します。
日本経済における高度経済成長期は、1954年12月から1973年11月までの約19年間です。この期間には「神武景気」「岩戸景気」「オリンピック景気」「いざなぎ景気」「列島改造ブーム」と呼ばれる好景気が立て続けに発生しました。
労使関係の推移
春闘体制
春闘とは、春季賃上げ闘争の略です。主要産業が時期や要求を互いに調整して、春季に統一的に行う賃上げ闘争のこと指します。
日本製鋼室蘭争議(ぐるみ闘争)の敗北を受け、日本労働組合総評議会は「ぐるみ路線」から「春闘路線」へと転換しました。つまり、地域ぐるみや家族ぐるみではなく、産業レベルで力を合わせるようになったのです。これには総評事務局長が高野実から岩井章へ、そして副議長に太田薫が就任し、「太田・岩井ライン」が形成されたという背景があります。
春闘体制によって、企業別組合の経営者に対しての立場が弱いと言う弱点が克服され、強い交渉力を持つようになりました。また、高度経済成長の恩恵はトリクルダウン式に労働者へと分配されていくようになりました。
労使協調主義
政府による労働組合運動弾圧などに反発して、労使協調主義路線による労働組合運動の潮流が形成されるようになりました。労使協調主義とは、労働者と使用者(資本家)が協力し、企業の生産性を高めようとする傾向のことです。
1964年には全日本労働総同盟が発足し、労働戦線統一(1989年)まで、総評・同盟・新産別・中立労連の4つのナショナルセンターが並立することになりました。
また、IMF・JC(International Metalworker‘s Federation:国際金属労連日本協議会)も1964年に結成され、各ナショナルセンターの垣根を越えた連合が誕生しました。
給与体系の推移
敗戦直後の日本は、電産型賃金体系(年齢や家族構成で給料を決める方法)が一般的な給与体系でしたが、これには「仕事の種類や量を給料に反映できず不公平」と言う問題がありました。
そのため、日本は仕事と密接した賃金体系を目指すようになります。
まずは生活給とそのベースアップ(インフレに応じた賃金の一律値上げ)による昇給から定期昇給へと遷移し、さらにコスト削減のため職務給(職務に応じた給与)の導入へと進みます。
しかし職務給は仕事の内容が明確化されていない日本の企業においては判定が難しく、職務によって定員が決まっていて、昇給の限界があるという問題もあったため、1969年から能力主義管理が提唱されるようになりました。
能力主義管理が打ち出されたことで、職務給の代わりに職能給(職務遂行能力に応じた給与)が台頭するようになりました。職能給の導入に伴い、職能資格制度(職務遂行能力に応じて労働者を各等級に分類し、賃金の管理を行う制度)が普及がするようになりました。